ここで言う「傷」とは、トラウマとは少し違うものです。
誰かに傷つけられたというよりも、生まれたときからすでに自分の中にあるもの。
ふと向き合うと、心が軋むような、逃れられない感覚です。
マルティン・ハイデガーはこれを「被投性」と呼びました。
自分ではどうしようもない条件の中に、すでに置かれているということ。
子ども時代、私は経済的にも文化的にも恵まれた環境で育ちました。
日曜日になると、家族で神戸の元町に出かけるのが習慣でした。
ある日、父がいつも通っているレコード店で、
店主と談笑している父のそばに立っていました。
そのとき、中学生くらいの、私より少し年上の男の子が店に入ってきました。
クラシックのレコードを手に取りながら、
こちらを怪訝そうに見たのです。
その鋭い視線と目が合った瞬間、強い感覚が流れ込んできました。
自分が置かれているこの環境は、特別なものなのではないか。
多くの人は、それを持たずに生きているのではないか。
その感覚は、いまでも消えません。
私は、この場所に生まれたくて生まれたわけではない。
けれど、それによって決まってしまう何かがある。
そのことに、気づいてしまったのだと思います。
自分は何かを成し遂げたわけでもないのに、
こうして安穏と暮らしていることに、どこか後ろめたさがつきまといました。
人間には、「どうしようもなさ」がある。
それは親との関係かもしれないし、環境かもしれない。
私にとっては、それがこの「場所」でした。
これは、癒したり乗り越えたりできる「傷」ではなく、
一生引き受けていくしかないものなのではないかと思います。
あのレコード店での一瞬、
私は「傷ついた」のではなく、
問いから逃れられない存在になったのだと思います。
いま、A&ANSとして場を創り、レクチャー開催など 活動をしていますが、
その原点には、この経験があるように感じています。
あのとき感じた違和感を、
そのままにしておけなかった。
だから、続けているのだと思います。
人は傷によって内側に閉じられるのではなく、
傷によって世界に開かれている。
私の愛読書であるヘッセの『デミアン』には、
カインとアベルについて語られる場面があります。
それは単なる善悪の話ではなく、「しるしを持ってしまった者」の物語です。
世界に適合しきれない者。
気づいてしまった者。
額に印を持ち、問い続ける者。
そうした人は、決して特別な存在ではなく、 まだ言葉にはできないけれど、
この世界の中に、少なからずいるのではないでしょうか。
だから私は、傷によって自身の内に閉じるのではなく、
世界に開かれた「場」を作っていきたいのだと思います。
