そもそも、ほんとうにそうなのだろうか。
もしかすると私たちは、そもそも問いを持つことよりも、
正しく答えることを優先するように作られてきたのかもしれない。
「学び」とは、本当に「役に立つ」ためにあるのだろうか。
たとえば、スキルを身につけることや、
日常生活や仕事の上で必要なことを知ることは、確かに役に立つ。
しかし、文学や芸術、哲学などは、目に見えて役に立つとは言いがたい。
レクチャーや学びの場を見ていると、
その多くが“有用な人材になるための学び”に見える。
それは突き詰めれば、お金を稼げるようになるための学びとも言えるかもしれない。
もちろん、それ自体を否定するつもりはない。
最近は、アート思考や哲学対話なども、仕事のために役立つものとして語られることが増えている。
そうした流れは、一見すると進歩的にも見える。
けれど同時に、どこかでアートや哲学のあり方そのものを変えてしまっているようにも感じる。
この間、レクチャーの場で印象的な出来事があった。
「破壊の形而上学」をテーマにした回で、
参加者の方から講師への問いに対し、
講師の方が一度立ち止まる場面があった。
そのとき、場にわずかな緊張が生まれたのを覚えている。
そこに、「もしかすると、こういうつながりもあるのではないか」と、
一つの視点が差し出された。
すると講師はそこから応答を組み立て直し、
場の中で理解が深まっていった。
振り返ると、あれは誰か一人の知識ではなく、
講師、参加者、そして場の関係性の中で生まれた時間だったように思う。
私たちは普段、「知っている人が教える」という前提で学びを捉えている。
しかしその場で起きていたのは、
知識の伝達ではなく、知が生成されるプロセスだった。
そこでは、あらかじめ用意された答えではなく、
問いによって一度立ち止まり、
そこから別の見方が立ち上がっていく。
こうした経験を通して感じるのは、
学びとは単に知識を増やすことではなく、
世界の見え方が変わってしまう体験なのではないか、ということだ。
私たちは皆、無意識のうちに
「こういうものだ」という前提の中で生きている。
けれど、ときにそこに違和感を覚えることがある。
その意味で、この違和感は、孤独で、
どこかその場の内側にいながら外れているような感覚なのかもしれない。
私たちは、違和感に従うよりも、
それをなかったことにすることに慣れてしまっているのかもしれない。
聖書に登場するカインの「印」は、
共同体からの排除のしるしであると同時に、
生き延びるための保護のしるしでもあったと言われている。
その両義性のように、
この違和感もまた、苦しさであると同時に、
別の見方を社会にひらく可能性でもあるのではないだろうか。
いま、人工知能 の登場によって、
社会そのものの前提が揺らぎつつある中で、
同じように私たち自身の前提も問い直されているのではないだろうか。
これからの社会に必要なのは、
既存の枠組みの中でうまく適応する力だけではない。
一度その前提から距離をとり、
社会の内と外のあいだに立ちながら、別の見方を獲得すること。
それは、本来のアートの力であり、文学の力であり、哲学の力でもある。
これからの社会を変えていくのは、
完全に適応した人でも、外から批評するだけの人でもなく、
そうした問い直す視点を持ちながら関わり続ける人なのだと思う。
A&ANSは、知識を得るための場ではなく、
こうした新たな世界の見方に触れ、世界を捉え直し、
そこから新しい関わり方を生み出していくための学びの場でありたいと考えている。
それは、答えを得る場ではなく、
問いによって世界が揺らぐ場でもある。
