問いが消えないように、場を支えるということ

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問いが消えないように、場を支えるということ
ー問いの文化的空間は、社会のショックアブソーバーになる

私たちは、アートと学問という領域を往還し、
立ち止まり考えるための場をひらいています。


まだ言葉にならない違和感や問いの芽と、
しばらく一緒にいることを大切にしています。
それは、問いを生成し続けるための文化的な空間です。

問いを生成し続ける場とは、
社会の急激な変化を「意味として分解する前の状態」で、
いったん受け止める場所です。


言い換えれば、
社会にとってのショックアブソーバーのような役割を果たします。

社会は無自覚に放っておくと、
効率、正しさ、成果、スピードを優先する方向へと傾いていきます。
その中で、人の内側に生まれる違和感や痛みは、
「早く処理すべきもの」「解消すべき不具合」として扱われがちです。

でも、この緩衝があることで、
「問い」は、すぐに対立や分断へと変わらず、
人と社会は、考える余白を取り戻すことができます。

時代の転換点で起きていること

現代社会は、避けられない時代の大転換に直面しています。
それは、私たちにとって大きな衝撃です。

AIなど急激な技術革新。
多様化する価値観の大きな転換など、
それは新時代を感じる一方で、ときに痛みとして現れることもあります。
若年層の自殺が増えている現状は、こういった時代背景が無関係ではないのかもしれません。

一旦、それぞれの人の心に湧き起こる問いを保つ場がなければ、
社会は拙速な制度改変や排除に走り、
個人は自己責任を問われ、それは即座に分断へと変わっていきます。

「無関心」「虚無的」と言われてしまう人たちがいます。

けれど実際には、言葉にならない不安や焦り、

わからなさを抱えたまま立ち尽くしているだけなのかもしれません。

それが、外からは無関心や虚無に見えてしまう。

そうした多くの人たちに、いま必要なものは何だろうか。

私たちは、そこから考え始めました。

なぜ「学び」や「議論」では代替できないのか

学びは、多くの場合、答えに向かう装置として設計されています。
議論は、正しさや勝敗を決める装置です。

どちらも社会にとって必要な営みですが、
どちらも「問い」を「早く解消しようとする」方向に働きます。

ショックアブソーバーとしての場に必要なのは、
その逆の機能です。

解消しない。
決めない。
熟慮する。

問いが問いのままで、
しばらく留まっていられること。

創作に向かう学びは、
大転換期においても確かに役に立つ。
しかし、
問いを保つ場を欠いた学びは、
まだ言語化できない大切なものを見過ごし、
やがて自分自身を使い潰してしまいます。

小さく、地道な営みとして

私たちの活動は、成果は測りにくく、数値化もできません。

人を変えるためのものではありません。

けれど、
問いが消されないように。
問いが分断や対立に変わらないようにと願い、
そのための場所を、ひらいています。

「正しいか、間違っているか」
「役に立つか、立たないか」
「行動すべきか、やめるべきか」

そうした判断を、
いったん脇に置く時間を大切にしています。

まだ言葉にならないままの感覚や、
整理しきれない問いの中にこそ、
思考の芽は宿っています。

しばらく、そのままでいること。

決められない状態は、
未熟さでも、停滞でもありません。

むしろ、
世界を一つの言葉で説明できなくなったとき、
人はそこで初めて、
本当に借り物の言葉ではなく、考え始めることができると思うのです。

決めないまま、
答えのないまま、
それでも生きていくために。

私たちは、
問いが問いのままでいられる時間を、
地道な営みとして支え続けます。

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